開業以来、患者様に喜んでいただけるよう、勤務医時代より東京で学んだことを生かし、技術向上をめざしながら、仕事に取り組み頑張ってまいりました。
■大学時代
ド田舎者の私にとっては、『東京歯科』のキャンパスは綺麗で華やかな、まるで博物館の庭のように感じました。そこにいる学生がまたおしゃれで…
大半が同窓生のご子息ですから当たり前なんだけど。着てる物、持ってる物がやっぱり違う…
(僕なんかきっと錦鯉の池のアメンボみたいに、浮いていたかも)
どこか運動部に入ろうと思い、下宿の先輩の縁で『ワンダーフォーゲル部』へ入部を決めました。なんせ海と山に囲まれた田舎育ち、それに抜群に楽しかった小学校時代のキャンプの思い出も重なり、最初はワクワク気分でしたが…
これが本当に甘かった…
とにかく山はきつい。
登るのが苦痛。25kgのリュックを背に、汗泥まみれで野宿2週間…
肉体的・精神的にかなり鍛えられました。
恥ずかしながら、初期はあまりの辛さに山の斜面で涙し、女の先輩に怒鳴られて意気奮闘したこともありましたが、学年が上がるにつれ体力・気力も向上し、山やスキーを楽しめるようになりました。
『山』から与えられたものは計り知れません。
『山』を通じて得た、『山の仲間』は本当にいいものです。
結局最終的に、先輩の誘いから病理学で卒論を書く機会にも恵まれ、実験や論文という貴重な体験をすることもできました。
■勤務医時代
やはり山仲間つながりで、神奈川県川崎市に初勤務することになりました。
お世話になった作間先生はハートフル! 非常にふところのでっかい先生で、大切なたくさんのことを勉強させていただきまし。
また遊ぶときも徹底的に!?
様々な面で多くを教わり、育てていただきました。
作間先生の繊細かつ大胆な外科処置は今でも印象的で、丁寧な歯内治療もお手本となっています。
臨床医は、最初に就いた師匠の影響を強く受けるといいます。
作間先生は、基本に忠実に、新人の挑戦を温かく見守り指導して下さった。患者さまの顎・口腔を改善することが、その人にとって食べる喜び、生活・人生をも変えてしまう程の大切な役割で、その役目を果たせることは尊いことなんだと気付かされ、それが私自身の喜び・意欲となりました。
作間先生から学んだことは、私の歯科医師人生の基盤となっています。
また、同時に矯正治療を学ぶこともでき、東京目黒区の矯正専門医、稲葉先生へ研修に通える機会もいただきました。
川崎での4年間、本当にどんな講習会へ参加するよりも意味のある、多くのことを教わり、現在に繋がる実践力を養うことができました。
「先生方と患者さまに、心から感謝しています。」
その後開業までの2年間、三重県四日市市の辻先生には補綴処置を中心とした手際のいい治療を学び、1人でゼロからの開業に向け、あらゆる面でそれまでと違った画期的で新鮮な方法や経験が得られました。
■開業に向けて
自らの恐ろしい歯医者体験から、また、この地域ならではの特性や生活スタイルを考慮し『患者さまが気軽に安心してご利用いただける便利で快適な歯科医院』をつくるため、まずは駐車場を広くとり次のことを決意しました。
① |
患者さまに親切に対応し、お話をよく聞き、わかりやすく説明する。 |
② |
歯医者は待たせるというイメージが強いので、できるだけお待たせしない患者さまのご都合に合わせた予約体制。 |
③ |
もし自分だったら・・・ 大切な家族だったらどうして欲しいか?を常に考えて、患者様本意の最適な治療を心がける。 |
以上の経験と決意をもとに、様々な多くの方にお力添えをいただき、平成9年3月に無事開業することができました。
「お世話になった全ての方々に心より御礼申し上げます。」
そして開業以来10年…
感謝の気持ちをもって、技術・サービスの向上をめざし歩んでまいりました。
私が生まれ育ったこの愛する『海山』の地は、その名の通り壮大な海と山に囲まれた自然豊かな美しい町です。人々は常にその恩恵を受けています。
が、その大自然がときには牙をむくことがあります。
■海山町の浸水被害
平成16年9月29日。
台風21号に刺激された秋雨前線の活動によって前夜から降り続いた豪雨は…
海山町に大災害をもたらしました。
記録的な集中豪雨(1時間最大130ミリ、連続1000ミリ超)が、海山の町の中心を流れる船津川が決壊し、およそ2000世帯が泥水に沈んだのです。ほとんどは床上浸水で、ひどい地域では水流が激しく避難しようにも流される危険がありました。2階へ避難するにも平屋の家では畳の上に浮いているしかなく、水圧でドアが開かずに閉じ込められ、危ういところを自衛隊ボートに救出された方もいます。
我が家の被害はまだ軽い方でしたが、町中の人は皆大きな精神的・肉体的衝撃を受け、皆同じように心身の苦痛に耐えながら、その後の過酷な復旧作業と闘い、支え合い、立ち上がることができたのです。多くの方々の復旧支援・協力があってこそ、今こうして日常を取り戻し、仕事に励むことができます。
窮地には、東海3県および全国の既知の歯科医先生方から、ご丁重なる災害御見舞をいただき、厚く御礼申し上げます。
ありがたく復興のために使わせていただき、皆様のご厚情に背かぬよう、一層努力してまいります。
本当にありがとうございました。
これからも、地域のみなさまに愛されるような歯科医院作りに励み、
そして、みなさまのよりステキな
歯っぴいスマイル
を見せていただけるよう、明るく元気なスタッフと共にがんばっていきます。
—— 『洪水』 ——
~2005年 同窓ワンダーフォーゲル部会誌への原稿より~
「克ちゃん!来た!玄関から吹き出てきた!」
妻は脅えた声で叫び、風呂・トイレからは、ゴボッゴボッと、吹き出る泥水の音が轟いた。
昨年9月29日(水)、集中豪雨は、我が美しき故郷「海山町」の船津川を決壊しました。
私の住むこの地域は、元々全国でも年間総雨量1、2位を争う程の大自然に恵まれた雨の多い地域である。台風に限らず大雨による土砂災害に備えて度々国道を閉鎖したり、また、台風・地震時のための緊急放送用ラジオが各家庭に配られている。
だから…という訳ではないが、この最悪の雨も(まぁいつものことだろう。)なんて甘く考えていた。
その日は、昨夜の激しい雨音が嘘のような、じきに止みそうな静かな小雨の朝だった。私は自宅隣の診療室で仕事の準備をしていた。隣町からの車通勤スタッフから道路が水溜まりで途中で立往生していると連絡が入った。同じ頃、自宅のすぐ前では四輪駆動車がぬかるみで動けなくなっていた。
8時頃だったと思う。突然、緊急ラジオのサイレンが鳴った。
「堤防の限界水位を超えました。川沿いに住む住民は避難してください。」
初めての放送、少し動揺したものの(川沿いったってうちは高いし大丈夫だろう…。)その時点では悔っていた。それに逃げるって言ったって水浸しで逃げようがない。が、気付くとわずか10分程の間に泥水は玄関まで来ていたのだ。
妻が叫んだ。まるで恐怖映画だ。玄関のドアの隙間から泥水がプシューッと噴水のように吹き出てくる。(どれくらい入ってくるのだろう?)とりあえず妻と3歳を迎えたばかりの息子を2階へ避難させ、飲料・水は確保した。
最初にカーペットが浮いて、水中を歩きにくくしていた。普段は持ち上げられないソファーや畳が浮かんでいるのは、異様な光景だった。(あとどれくらい浸水するのだろう?2階まで来たら妻と息子はどうやって助けるか…。)不安を感じ、とりあえず浮き輪を膨らませた。もう電気も電話も通じなくなっていた。まさに命の危険を感じながら7時間程、2階窓から見える水没した車や塀で水位を測っていた。
幸い階段の途中で浸水は止まり、上陸すると言われていた台風21号も反れ、夕方には水は引いた。
多くの住民は避難しており、自衛隊のボートも出た。近くの平屋に住む両親とも近所の人の携帯で連絡が取れた。携帯電話は必須だ。家族皆無事で一安心し、私は家の中をまるでワンゲル時代の泥地を歩くように散策した。妻子は変わり果てた自宅の姿にショックを受けた。電気・風呂なしで泥臭い夜を明かすのもかなり辛かったようだ。その点では、この被災経験は私のワンゲル6年間の「山生活」が活かさせる結果となった。
翌朝からの長い長い復旧作業の中では、どれ程多くの人に支えられ、救われたか測り知れない。
支援物資の配給はもちろん、遠方からわざわざ食料・衣類を届けてくれた人々。
泥だらけで清掃を手伝ってくれた親類。
汚く狭い床下へもぐり、泥水を汲み出してくれた隣市の患者さま…。
毎日腐敗臭のひどいカルテを拭き、1枚1枚乾かしてくれた我がスタッフ。
そして応援して下さった全国の同窓の皆様。
大自然の前で、人は本当にちっぽけな存在だが、人々がつながり心を結べば、途轍もなく偉大な力になる。それを実感し、また、変わりゆく地球の自然環境の中で暮らし、人は常に謙虚であるべきだ…と、実感した。
幸い苦い被災ではあったが、この貴重な経験は自分をひとまわり成長させてくれたように思っている。